初夏の京都



昨夜、長野から福井へ戻り
今日は京都まで。
東本願寺への納骨をすませました。


確認すると納骨は
東本願寺の本堂ではなく
東山の八坂神社近くにある
大谷祖廟へとのこと。


朝早めに出たので
納骨が終わったのは11時ごろでした。
ひとまず、この祇園と呼ばれる
あたりを散策。てくてくてくと・・・


先週、甲府に行ったときもそうでしたが
あまり意識せずに
どこへでも歩いて行ってしまいます。
もうすぐ3歳になる弘一郎くんには
少し歩きすぎだったでしょうか。



祇園のこの通りでは
精度の低い、荒くぼやっとした
ガラスの窓がいくつもありました。
その中には陶器、彫金、ガラス細工などが
控えめに配されています。


おそらくこの辺りでは
古くからの街並みを伝承するという誇り
お客さんが来てくれるという経済的な現実
そういうものが
比較的容易に
かみ合ってきたのかもしれません。


時代のトレンドをつかんでいると
思われているような
そんなものの持つセンスとは
違ったカタチがありました。


こういうウィンドウショッピングなら
飽きずにできそう。



一番感じたのは借景となっている
東山のいい感じでしょう。
何色もの緑が重なり
夏の紅葉といった趣き。
身近にこういう原風景を持つことは
生きていくセンスに大きな影響を
与えてくれそうです。



高台寺に寄った後、混雑する街中を避けて
宇治まで下っていきました。
小学校の修学旅行以来、17年ぶりに訪れた
世界文化遺産平等院鳳凰堂





きれいに咲いたツツジ鳳凰堂を眺めていると
とても1,000年前に建てられたとは
思えない美しさです。


平安時代の末期、仏教思想における千年紀を迎えて
末法思想というのでしょうか、世の中が
終末を迎えていくという考え方から
極楽浄土への救いを求める
人々の信仰がこの建物の誕生を
後押ししたそうです。


そこには、仕事だとかなんだとかいうことの枠を超えた
人間の力が顕現している。そんな感じさえします。


目の前に様々な問題を抱え
現実的に経営する感覚にとらわれた
私たちにはとても生み出すことのできない
そんな得体の知れないもののような
気さえします。


明後日の6/4から秋まで
修復の終わった国宝・阿弥陀如来像の
天蓋、後蓋部分を再設置する工事で
閲覧がかなわないそうです。
その修復工事に携わっている人たちの
心意気は1,000年前の人々のそれと
比べてどんなものであろうかと
思いをはせるのです。

初夏の京都 食べ物



肝心の食べ物。
お昼はこの祇園周辺で頂きました。


「むら田」という名のごま屋で
京生麩の佃煮を買ったついでに
お昼のことを聞いてみました。
この辺りは予約のところが
やはり多いらしく
お勧めといっても、あんまりピンと
くるものがないようなお返事でした。


だからというわけでもなく
歩く途中にあった「浜作」という
ところに入りました。



お昼を前にはしゃく子ども


京都の料理というと会席が
浮かんできます。
もっとプリミティブなものがないか?
という漠然とした期待を
持っていました。


そこにピタリというわけには・・・
残念ながら行きませんでしたが
生麩の田楽
品のいい漬物
味わったことのない香りのお茶
など、その片鱗を感じたような気がします。



みんなでお出かけをすると
弘一郎君はいつもアイスとプリンが
お目当てのようです・・・


宇治で平等院を見て感動した後は
「中村藤吉本店」
というところで
宇治金時の冷やしぜんざいと濃茶
を頂きました。
冷やしぜんざいの
ボリュームはさることながら
通りの土蔵造りから一歩はいると
昔から続くお茶の売り場の奥に
中庭に面したモダンなカフェがあり
混雑していました。
よくよく見ると、以前は工場か何かに
使っていたような柱梁が見えています。





静かな表通りから引き込んで
賑わいがあるのもいいものです。


抹茶には「濃茶」というものがあり
これほどまでに濃いものだとは
知りませんでした。


先日、茂木さんが濃茶について
書いていました。
「消し去るほどの深い」

千宗屋さんが入って来られて、
「濃茶を差し上げます」
と言って、所作が始まった。


千さんが半眼に入る。
凛とした緊迫感が走る。
目に見えない刃が
やりとりされている。


戦慄した。
千利休その人が、そこに甦って
いるのではないかという錯覚に囚われた。


長次郎の赤楽茶碗でいただく。


生命そのものの源であるところの
濃い緑色をした、泥状のもの。


それまでに味わった全ての
食事、お酒、お菓子を消し去るほどの
深い一撃があった。


「そうでなくては困るのです」
と千さん。



ぼくがこのイージーなカフェで
気軽に感じたものなど
茂木さんが武者小路千家の茶室で
感じたものに比べれば
比較するほどのものでもない。
と思う一方で


そのように言語化された感情を
追体験できたことに少し満足を覚えます。


今度はお手前を頂きたいと
そのように思います。