羽生「最善手」を見つけ出す思考法
- 作者: 保坂和志
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2007/06
- メディア: 文庫
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世に出たのは1997年、10年経って文庫化されたものを読んだ。
当時は将棋界からはほぼ完全に無視されたという話を聞いた。
仕事がら、酒造りの世界については耳にしたり、目にすることはあるが
「伝統的な日本」を背負う社会では、ものごとを受け入れる柔軟さがない。
今回の朝青龍問題も同じようなものなのだろう。
茂木健一郎だったか、テレビに映った朝青龍がサッカーに興じる姿が
とても楽しそうだったというコメントが印象に残っている。
羽生善治の本は以前にも読んだことがある。
- 作者: 羽生善治
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2005/07/08
- メディア: 新書
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保坂和志さんは羽生善治の将棋観をこのように要約する。
人は将棋を指しているのではなくて将棋に指されている。一局の将棋とは、その将棋がある時点から固有に持った運動や法則の実現として存在するものであって、棋士の工夫とはそういった運動や法則を素直に実現させるものでなければならないし、そのような指し方に近い指し方のできたものが勝つはずだ。(結論の出ないゲームとはそういう風にできている。運動・法則とうのが、人間にとって一番捉えがたいものなのだから。)
したがって、棋士は棋風とうい個人のスタイルを持つのではなくて、スタイルを乗り越えて、持てるもの全てを投入して、将棋の法則を見つけ出そうとする必要がある。
その時、これまで常識とされてきたすべてのことが再検討の対象となる。
たとえばそれは、“大局観”“筋”…といった概念=将棋言語を、コンピュータに入力するために、将棋の言語を一般的な言語に置き換えていく作業とも似ている。そのとき、棋士自身が当たり前だと思って通りすぎていたことの中に、意外な盲点が見つかるかもしれない。
さらには、「手を読む」という基本的な技術さえも再考される必要が生まれるだろう。なぜなら、「読む」とはプランのことであって、ほかのあらゆるプランが現実と比べたときに粗雑さが現れるように、「読み」にもやはり粗雑さがある。棋士は「読み」を実現する局面を作るのではなく、積極的に「読み」を上回る局面を作ろうとする必要がある。
将棋を徹底的に奥行きと広がりのあるものと考え、それに近づくように指すことが将棋を豊かにする指し方で、それをつづけてはじめて将棋というゲームの持つ法則が、人間的に見えてくる。
将棋の世界での常識を超えた羽生善治の将棋観。保坂和志はそれを肌で感じ
書くことを思い立ったのだろう。
羽生善治の考え方が将棋の世界での通念から、逸脱している。もしくは超越している
というような感じで文は綴られる。将棋の内容自体は専門的であり、
子供の頃に軽くかじった程度のぼくにはあまりよく分からない。
けれどもその文章の奥には、閉塞感にさいなまれた現代社会への問い掛けのような
凝り固まった日本型組織のあり方へのあるべき姿を言い表すような
そんな雰囲気が込められている。少なくとも、そう感じられるものがあった。
そんな思いはどこから来るのだろう。そんな本の読みすぎかもしれないし、
現状へのジレンマがぼく自身を覆っているからなのかもしれない。
何れにしても、羽生善治の将棋は現状からポスト現状へと
新しいものを提示しているのではない気がする。
おそらく、もっと根源的な、本物に近いものがあるのだと思う。
そんな気がした。