ハタラクということ



ハタラクということは、生きるということとは少し違うが、
とても大きな意味と時間を占める。


たった今、ぼくの会社でもハタラクということにみんなが関心を持っている。
それは喜びから来るものもあるだろうし、不安や不満から来るものもあるのでしょう。


最近、平野啓一郎がブログでこんなことを書いていた。
巧みに生きるか、善く生きるか、……
http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20070121

ウェブ人間論』の対談をしていた時にも考えていたことですが、人間は、自分の属している社会のシステムと否応なくつきあいながらどうにかこうにか生きているわけですが、そこで、「巧みに、うまく」生きているだけでは、結局のところ、満たされないんじゃないかという気がします。それは直接には、僕自身を振り返ってみてのことですね。
僕は、これまでの人生で、結構「上手に」生きてきたなという感じがしています。経歴からしてもそうですし、対人関係についても、総じてそれほどのトラブルもなく過ごしてきました。別に、そのために権謀術数を巡らせて、人を欺してきたわけでもなんでもないんですけど、そうだとしても、というか、多分そうだからこそ、何かの拍子に、自分は巧みには生きている、けれども、善く生きているんだろうかという疑問に深刻に見舞われる瞬間が、どうしてもあります。この感じは何なんだろうなとよく考えます。

人間は誰もお金のためには働かないだろうと、ぼくは心の底では思っている。


場合によっては、お金が必要な場合もある。
子どもを育てて勉強させるためであったり、
見知らぬ土地へ旅行に行って、自分を磨くためであったり
すてきなものを買って、ちょっとだけ前向きに生きるためだったり
病気の年老いた両親を養うためであったり。


お金のため=巧みに生きる
ことではもちろんないと思う。
生きている時間が長くなるほど、足下と目の前の
現実を捨て置いて行くことはできなくなる。


もんだいはそれでも、“善く生きる”ことが
一番大事なことだと思い続けることじゃないか。
それは理屈や理想なんかでは決してなくて、
人間「やってみればほとんど何でもできるんだ!」
ということを実行して
自分のまわりの人たちにまず喜んでもらうこと
じゃないだろうか。


働くことや仕事についていつも書いている方がいる。
子供に「どうして勉強しなきゃいけないの?」ときかれたら、何と答えるか?
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070121/1169414343


大人になって働くということと
子どものころに勉強するということとはよく比較される。
いやなことも引き受けなければならないという意味では似ている。
もちろん今はいやになることもあるけれども、勉強することも
働くことも楽しくすることができている。


“子供に「どうして勉強しなきゃいけないの?」ときかれたら”
に書かれていることは必ずしも正解ではない思う。
けれども、現実に立ち向かう力が必要だと思う。
ここに書いてることは、理屈として提示するための一つの方法であるだろう。
しかし、本来はその背後にある果てしない見えぬものを抜きにしては
真実を語ることなどできないし。
けれども、見えぬものを語ることもまたできない。